生きる指針があると楽である。
今の僕は「嫌われる勇気」、アドラー心理学の世界観で生きようと決めている。
アドラー心理学の本にたくさん触れて、色んな角度からその思想を理解していきたい。
本の中でも出てくる原因論と目的論。
前編で「原因論そのもの」について、後編で「原因論の住民から抜け出す思考」について考えてみよう。
原因論とは
- 「○○だからこうなった」
- 「○○だからこうしてしまう」
物事には何か原因があって今の行動を起こしている。
そう考えるのが原因論である。
例えば、
「ストレスの高い業務に変わったから毎晩飲んでしまうようになった」
「嫌なことがあった日は爆食いしてしまう」
そんな類の話を誰かに聞いたか実体験をしたことがあるかもしれない。
正しくこれが原因論である。
トラウマを完全否定する
アドラー心理学ではトラウマを断固否定している。
トラウマとは原因論の最たるもんで、過去の出来事に対して今の自分を決定づけている。
例えば、
「私はイジメを受けた経験があるから、コミュニケーションが苦手になった」
「私は両親が離婚したから、結婚というものに否定的な考えを持っている」
両者とも一見、筋が通っているような理屈に聞こえるし、当人もたぶん本当にそう思っている可能性が高い。
そうじゃない人もいる
イジメを受けた経験でコミュニケーションが苦手になる人がいる一方、そうではない人もたくさんいる。
僕が思い浮かべるのはメンタリストDAIGO。
コミュニケーションが得意かどうかは知らないけど、イジメという状況にあっても「行動」で変えられるという体験談がある。
これも”事象1″にしか過ぎないのだけど、同じ事象が起きても、そうなる人と、そうならない人がいるのも事実だ。
それは何故だろう?
この点を、アドラー心理学の「目的論」で考えると合点がいく。
目的論とは
目的論とは、これまで上げてきた例の「結果と因果」の順番が逆なのである。
例えば、
「ストレスの高い業務に変わったから、毎晩飲んでしまうようになった」
で考えると、
「毎日お酒を飲むため(目的)に、ストレスの高い業務(因果)を利用している」
となる。要は短期的な快楽に興じているだけ。
また、
「私はイジメを受けた経験があるから、コミュニケーションが苦手になった」
で考えると、
「私は人とのコミュニケーションを回避するため(目的)、イジメを受けた経験(因果)を持ちだしている」
こう考えるのは、当人にとっては受け入れ難いし、イジメを受けたことが人格形成に影響があるのは事実だろう。
原因論で説明する時は、大体当人の責任が無いように話される。
だから周りも同情と理解を示す言葉しかかけられないことが多い。
「誰もが皆、何かしらの目的に沿って生きている」
その発想の転換が目的論である。
退職者に多い話
- ・あなた(上司)の言い方がキツいから辞めます
- ・この会社のやり方は間違っていると思うから辞めます
どちらも「それは辛い思いをしたね…」と同情がもらえそうな話である。
ただ、これも後付けの原因論でしかない。
「辞める」という目的があって、「上司の言い方」や「会社のやり方」を持ち出しているに過ぎない。
会社なんてクソほどあるのだから、「もっといいとこで働きたいので転職します!」と、目的論的に辞めればいいのに。
「上司の言い方」がキツいのは全員に対してなのだろうか?
その上司は不条理な理屈を並べ立てて、部下に当たり散らしているのだろうか?
あなたの思う「理想の会社のやり方」とは何なのだろうか?
他責にした上に、上司も自責の念に駆られる。
誰かの「正義の対岸」には悪ではなく、「別の正義」があるのだ。
改めて、そうじゃない人もいる
会社は利益を追求する団体である。
利益を追求するためには、一定以上の業務をこなせる必要がある。
会社は従業員に教育サービスを提供する場ではなく、社会的に必要とされる行いを通じて金銭的利益を追求する場所なのだ。
上司も自己成長を目指していることを前提に話すと、自分の人間性をフルに活かして会社のためにやるべきことをやったなら、自責の念に駆られる必要はない。
部下のことも想い、会社(ご利用者)のために全力でやったなら、それをどう捉えるかは他者の課題だ。
「この人はご利用者のことを熱心に考えて、私の成長も願って指導してくれている」
と思う人もいれば、「言い方がキツい」と思う人もいるのだ。
終わりに
原因論の住民は、短期的には居心地が良い。
ただ、長期的には「変わらない自分」「他責クセ」で幸せからは遠い人物になってしまう。
後編ではこの原因論から抜け出す方法「これからどうする?」について書こう。
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