「提案する」とは習慣だ。
良い習慣は人を成長させてくれる。
しかし、「わからないので教えてください」と、教えてもらう教育のせいか。
「楽をしたい本能」のせいか、リスク回避脳か。
理由はわからないけどほとんどの人が出来ない。
断言する。
これが出来るだけで、どこに行っても通用する人材になれる。
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1年半くらい前に書いたブログ。ほぼ同じことが書いてある。
1年半くらい前の社長ブログ
「じゃあそれで!」と言わせるだけ
現場スタッフにもある権限で、会社に貢献できる1番の業務、それが提案だ。
「何かしらの立場」をとることで、自分の存在価値が生まれる。
「利用者さんが使うタブレットが壊れました、新しいのを買いたいです」
このように起きた事象を思い付いたまま言ってはいけない。
「数あるタブレットの中でスペック、価格、口コミ、色々調べてA商品とB商品に絞りました」
「使用頻度を考慮して価格の安いB商品がいいと思います!」
そうくると上司は「じゃあそれで!」と言うだけである。
伝書鳩はいらない
働いて対価を得るとは、「価値」を提供することである。
- 「〇〇さんから電話がありました。折り返し電話をお願いします。」
- 「Aスタッフからこのように質問がありました。どうすればいいですか?」
この2つの言動に何の価値もない。
ただの伝書鳩。
その事象に対応する同僚・上司が知りたい(であろう)情報や「たぶんこうだろう」を提案する。
例えその提案が完璧でなくても、考えて発信すること自体に価値がある。
冒頭に言ったようにこれは慣れ、習慣なのだ。
何かを決めるとき、相手にただ判断を委ねるのではなく、自ら提案をする。
意見を伝えることを習慣にしよう。
「なんでもいい」は一生やめよう
- 「今日の夜ごはん何がいい?」
- 「ん〜、なんでもいい」
「なんでもいい」は最も無価値な発言だ。
「私は考えないからあなたが考えて」とも取れる。
そもそもなんでもいい訳がない。
例えば、白米だけ日本昔話ばりに盛られて出されたらブチ切れるはずだ。
「冷蔵庫に白菜と豚肉があるから鍋はどうかな?」
「近所の中華はどう?」
なにがなんでも意見を言おう。
偏りこそが価値になる
意見を言うとき、本心ではなく無難に済ましたい人もいるだろう。
でもどうだろう?
相手は無難な意見が聞きたいのかな?
いや、違うはずだ。
- 「ちゃんと調べてきたんだな」
- 「なぜ数ある選択肢の中からそれを選んだんだ!?」
そう感じた時に「納得感」が生まれるもんだ。
ただ、逆張りのための逆張りは不要だ。
それは炎上のための炎上みたいなもんで、不快に感じる。
そうじゃなくて、「ほとんどの人はこうするんだけど…でも私はこう思う」
そういうのは納得感が共有できる可能性が高い。
余談
偏りに価値があるって書いてたら、最近見たこの映画を思い出した。
映画なんてほとんど見ないんだけど、オススメされてて見たら超楽しかった。
死なないことに異常なレベルで取り組んでた。
食事制限、8時間睡眠、毎日1時間運動、サプリ130個、遺伝子の書き換え、息子の血漿を自分へ…
もうマンガみたいな話だったけど、その生き方に価値を感じて人が集まってた。
僕もとても好感が持てた。
今の時代、正しい偏りは価値がある。
終わりに
良い習慣はつまらない。
良い習慣はすぐに効果を感じられない。
良い習慣は続けられない。
その代わり、続けられた人は比べ物にならないほど変わる。
冒頭に書いたように、これが出来るだけでどこに行っても通用する人材になれる。
だから僕は嫌われようと口うるさく言う。
- 「あなたの意見は?」