「責任感が強い」「私には責任がある」「これは責任重大だ」
子どもの頃からよく思ってた。
- 責任ってなに?
と。
それは大人になっても変わらなかった。
最近これについて考えることがあったのでブログにしておく。
抽象的過ぎる
楽して生きたい、頑張ります、気を付けます、これらの言葉に意味はない。
仕事上で誰かがミスした時に「今後どうしよう?」と言って、「これからは気を付けます」と聞いて改善した試しはない。
僕も発したことがあるけど、「具体的に何をした」ってのは後付けだったような気がする。
要はその言葉を発している瞬間は、「私は今何も考えていません」とイコールなのだ。
「気を付けます」ではなく、「チェックの人数を増やします」「5分早く行動します」なら具体的だ。
抽象的な言葉には、発言者と受信者の認識にズレが生じる。
責任を取って辞めます?
政治家が言いそうなことで、その部分がテレビで報道されるから「かっこよく」見えるのか…退職する人がたまに言ってくる。
テレビでかっこよさげにそんな風景を見てたら、「責任を取るとはこういうことなのか!」と思ってしまう。
ただ、僕はそうは思えなかった。
反対に、途中で投げ出して「この人めっちゃ無責任じゃん」って思ってた。
だって明日から問題が起きている事象に対して向き合わなくていいんでしょ?
仕事は抽象ではいけない
このように、同じ事象に対して「責任を取った」という人もいれば「無責任じゃん」と解釈する人もいる。
「責任」という言葉が抽象的過ぎるのだ。
ちなみに仕事上で抽象的な指示や目標はいけない。
いけないというか、相手と解釈が違うかもしれないと思った方がいい。
解釈が違うと行動が違う。
「え?なんでそうしようと思ったの?」ってことがあとから起きる。
話を戻して…
「責任」という言葉を具体的にしてみよう。
責任を具体化する
- ・黒字にする
- ・介護事故、虐待ゼロ
- ・グループホームで毎月外出する
どれも認識のズレが起こりようのない、具体的な目標である。
例えばこれらに対する管理者の責任とは、目標達成のためのあらゆる具体的な行動を洗い出し、上司・部下と共有して実行する、ことだと思う。
仮に「黒字にする」ためには「新規利用者の獲得が必要だ」とするなら、
- ・すべての相談支援事業所や特別支援学校に営業に行く
- ・動画制作をする
- ・同業他社に獲得事例を聞いてみる
- ・当事者団体の集まりに顔を出す
どれも具体的である。
「営業に行く」ってのも「いつ?どこに?営業先と繋がりのある人はいないか?その人の趣味は?」など事前準備も重要だ。
営業に行くためにシフトも調整しないといけない。
どんどん行動に落とし込んでいかなければいけない。
いやいや、「黒字にする」ためには今「コストカットが必要だ」とするなら、
- ・今は余分な人員がいるから、コストカットのために一時的に別事業所に配置転換の調整をしよう
- ・ここの家賃は下げれないのか?オーナーに交渉してみよう。
- ・人件費が低くなるように、次から雇用するのはパートだ
どれも認識のズレが生まれない具体的なプランだ。
黒字にするために「頑張ります」は、「私は何も考えていません」と同じである。
「決断と行動」が責任である
- 「(前章に例をあげた)アクションプランを6か月間、実行したけど成果が出なかった…」
ここで責任を取って辞めます、は無責任だと思う。
テレビが大衆の心に植え付けた?「責任=辞職」の図式だ。
僕の思う責任とは何なのか?
決断と行動である。
今ある情報から選択肢を並べて決断し、実際に行動することである。
例えば、黒字に転じるにはあともう1年かかり、1年もその会社は赤字に耐えられない、のであれば、事業をやめる必要がある。
希望に満ちて走り出した事業であればあるほど、「やめる」という決断ができなくなる。
それでもやめなければいけない時がある。
もし、事業をやめる決断をしたならば、今いるご利用者謝って謝って謝って次の利用先を紹介する必要がある。
スタッフ(この場合は部下)にも、一緒に努力してくれたことに感謝を伝えつつ、別事業所への異動や、場合によっては解雇を伝えなければいけない。
その場合でも、スタッフが希望するならば次の職場を紹介するなど、出来ることがたくさんある。
もちろん、事業を止めるではなく、プランを修正してまた行動するって選択肢もあるだろう。
汚い表現なので好きではないが「ケツを拭く」までが責任だと思う。
結果が出せなかったから辞めますは無責任だ。
終わりに
みんなは「責任」についてどう思うだろう?
文章でなくても、妻や夫や子ども、友人などと話してみると楽しいかもしれない。
抽象的な言葉がいかに認識のズレを生んでいるか…体験できる。
僕は決断と行動だと思う。