「子どもは先生から一方向的に教えてもらう」
「移動するときは整列する」
「修学旅行の行き先は決まってて、用意された旅程で行動する」
これらはいつから始まって誰が決めたんだろう?
僕が過去に何の疑いもなく受け入れていたものを疑って、教育現場で実践している人たちがいた。
「夢見る小学校」だ。
この映画の主人公は子どもたち。舞台は学校だ。
子どもたちは生き活きとしていて、大人は子どもたちの邪魔をしないよう決まり事を作り、教育の中で注意を払っている。
子どもたちからは「先生」ではなく「大人」と呼んでもらうようにしていた。
介護・支援とあまり関係ないと思うかもしれないけど、僕たち支援者がいつもご利用者に、”当たり前”や”こっちの都合”を押し付けてるって面では似てると感じ、見直したいと思った。
とにかく体験を重要視
「校舎から校舎への通路に屋根がなくて雨に濡れる!」
「じゃあ工事業者を呼んで屋根を付けてもらおう」
この小学校ではそうはならない。屋根をみんなで作るのだ。
屋根を作るとなると、構造物の安全性や耐久性を確保するため、様々な計算が必要になるので算数の勉強になる。
実際に使う部材の調達とその価格を知ることで、どこで何を売ってるか?がわかり金銭感覚も身に付く。
もしかしたら、「この大きな部材はどうやってここに運ばれてきただろう?」と物流に興味を持つかもしれない。
それをみんなで話し合い実際に作るのだ。作るには体力も必要だ。
体験から得たものは大きい。見た聞いた、ではなく「やった」のだから。
電動ドリルから身体に伝わる振動。仲間と一緒に運ぶ部材。予定通りにいかず新たな方法を模索する会議。
どれをとっても「工事業者を呼んで屋根を付けてもらおう」より生きる力が身に付いている。
大人が勝手に決めることは少ない
僕が驚いたのは修学旅行と運動会。
修学旅行は、予算だけ伝えておいて行き先は子どもたちが決める。
作品中ではみんなで話し合い、行きたい場所・学びになる場所として行き先は広島になっていた。
ちなみに宿泊場所や食事場所の予約をするのもすべて子どもたちだ。
運動会は、出なきゃいけない種目なんてない。
体を動かすことが好きな子は、体力の続く限り全種目に出てもいい。
体を動かすことが苦手な子は、種目には出ず見てるだけでもいい。
そういえば僕も今では旅行好きだけど、昔は嫌いだった。
旅館に行くと、チェックインを済ますやいなや「お荷物をお持ちしますね」と言われ部屋まで同伴される。…いや、自分で持つからその分安くしてくれ…
食事も宿泊とセットで時間まで指定される。…いや、山の幸フルコースはいらないから外で食べたい…
こんな具合で余計なサービスや決まり事が多く嫌いだった。
旅行=旅館やホテルに泊まる、という固定概念があったのだ。今はAirbnbなどで”暮らす”ように泊まれる。
授業スケジュールもメインは「プロジェクト」
授業スケジュールには国語 算数 理科 社会 英語、なんて言葉はなく「きそ」とだけ書いてある。必要な知識の基礎だけ教えるようだ。
メインは「プロジェクト」と呼ばれる体験学習。このプロジェクトでは先に述べた「屋根作り」や「修学旅行の旅程決め」などを行う。
海外のインターナショナルスクールでも同じようなスタイルを取っているのを聞いた。
インターナショナルスクールの小学校では、コミュニケーションが最重要スキルと捉え、他生徒と話し合い、折り合いをつけることを学ぶ。
そして自分とは違う考えの人がいて、認め合うことを身を持って知る。
11才までは試験や成績などはなく、授業スケジュールも最低限のみ。
そんな教育もあるようだ。それと似ていると思った。
こんな事例も
作品の中で、「日常生活に問題がある」として発達障害を診断され薬を服用していた女の子が、この小学校にきて薬が必要なくなったケースも紹介された。
これは障害者支援の現場にいて、往々にしてあると感じている。
要は、定型発達の思う当たり前とは違う感覚や生活スタイルを異常と判断し、薬で定型発達側に馴染ませようとすること。
もはやどの分野においても”当たり前”の価値観は薄まっている。
介護現場も、画一的にみーんな一緒!なんてことをやってたら、時代錯誤も甚だしいと見向きもされなくなるだろう。
終わりに
この映画は本当は妻と一緒に見て、こんな学校もあるんだって夫婦で知った上で、わが子のことを考えたかったけど、それは叶わず一人で見た。
しかしこの映画は自主上映というスタイルでやっていて、端的に言えば、お金を払えば上映会を自分たちで開催出来るのだ。
もし上映会を開くことが出来ればその時は妻にも見てもらおう。子育て世帯だけでなく、いろんな人に見てほしい。
介護現場の人は”当たり前”や”こっち都合”について考えるキッカケになるから。